かく語りき

今藤のブログ。最近の趣味は休日ジョギング。フルマラソンは未経験です。

関西弁と私

次男坊が言葉を覚えるのが速くて驚く。


朝早く夜遅いので、子どもたちの声を聞けない日がある。聞けない日が続くこともある。そうして久しぶりに会話したときに、へえ、そんなに喋れるようになったんだね、と感心する。

日曜には「ぎょうさん」などと言っていた。


なんとも言えない気分になる。

私は育ちが大阪ではない。
生まれ育った街と現在地が異なる人はいくらでもいて、故郷を離れて子育てする親も多い。そのような方々がどう感じるかは存ぜぬが、私は大阪弁で話す息子たちを見てたまに、(ああ、こいつらはおれとちがう言葉を話すんだな…)と思わされる。やや無神経な表現をすれば、仲間の範疇の向こう側でたたずむ人、になっている。血の繋がった息子だというのに。

彼らにその境遇を与えたのは私だから、好き嫌い、許せる許せないはない。私と別の道を歩むのは、大いにけっこうなことだ。


ただ、寂しいに似た感情が少しだけ湧く。




本題は別にある。

標準語と東京弁はちがう。
同様に関西弁と大阪弁も異なる。


ところで、私が聞き分けるに、東京で使われる言葉は四種ある。

東京の言葉(比較的汚い)と北関東の言葉(千葉と北多摩も。比較的硬い)、南の言葉(南多摩と神奈川。ちょっと汚くちょっと硬い)、あとは標準語。みんな、自分は東京の職場や学校ではよそ向きの標準語を話してるつもりでも、実はお国柄が出ていたりする。

ということに、大阪に来てから気がついた。
大阪人のビジネス標準語(もちろん大阪弁丸出し)を聞いて以来、外から見たら東京の言葉もいろいろだと知った。



で、関西弁。

大阪で暮らして長いが、いまだに(これが関西弁だ!)がわからない。


関西弁には、標準語のようなアナウンサー言葉や文章言葉がないからだ。お手本みたいなものが無い。テレビの関西弁は私の周りの人の言葉と明らかに異なるし、周りの人々は出身地の言葉を隠さないから、てんでばらばらである。

ただし、みんないちいち目くじらを立てない。
なぜか。礼儀もあるけれどそれだけじゃないようだ。どちらかといえば、無関心に近い。


思うに、彼らはイントネーションで区別している。

語尾や言い回しで区別してないから地域差が気にならないのだと思う。一方、イントネーションが異なると容赦なくエセ関西人呼ばわりする。朝の連続テレビ小説大阪弁が槍玉にあがることが多い。

その抑揚をマスターしてない私も、初見の人に「こっちの人じゃないでしょ」「え、なんとなく。でもそうでしょ?」とほぼ必ず言われる。こっちの人歴十年以上なのに。お前よりキタやミナミに詳しいというのに。



さて、息子の北摂訛りの大阪弁に違和感を感じる私だって、周りの人の(統一されてない)関西弁にそれなりに馴染んでいるので、なかには、中途半端な大阪弁話者としての私が仲間の範疇の向こう側と感じる言葉もあるわけだ(単に身近に感じないの意味です)。


私のそれは、兵庫の人が喋る言葉である。
尼も伊丹も神戸の人も。播州弁だともっとそう。


きとう(来た / veni )
みとう(見た / vidi )
かっとう(勝った / vici )

これらを耳にすると、んん…と思う。
別に兵庫の人に嫌なことをされた経験なんてないし、三ノ宮へは碌に行かないからよく知らない。神戸は都会だから馬鹿にしてもいない。職場にはこの言葉使いの人もいる。馴染みがないわけでもない。でもなぜか、他の近畿地域以上に、んん…と思うのだ。

理屈じゃない部分で、根拠が自分でもわからない部分で、んん…と思ってしまうのだ。




いやあ、なんつうか。少し前に「ダボが!」って言われましてね。あ、ほんとうに言うんだ。やっぱ言うんだ。勢いがあるなあ。「クソが!」と同じニュアンスでいいのかな? と思ったわけなんですよ。

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